研修生たちは私のいる学校で３か月ほど泊り込みで日本語の勉強をします。当然日本へ旅立つ日が来るわけなんですが、やっぱり何だかさびしいです。一方で、レベルの低い先生には学校を去ってもらわなければならないんですけど…。

いろいろな別れ
　通常はクラス担任にならずに各クラスの会話を担当するという建前の私でしたが、よそで２か月勉強してきて半月後には日本へ行くという研修生が１０人以上入校してきました。当然のことながら、予備校の冬期講習じゃありませんが、直前対策会話集中特訓クラスみたいなものを作って私が集中的に教えることになりました。

　クラスは２０人で、１３人が煙台で勉強してきた人たち。残り７人は河北省出身で、この学校で日本語をゼロから勉強した人たち。この７人は河北省の研修生派遣機関からの初めての研修生ということで、その責任感からか非常にまじめでよく勉強するし、実際よくできるのです。問題は煙台の１３人です。彼らの責任ではないんですが、先生が学校出たばかりの女の子だそうで、恐らくは教科書の本文の説明だけするような授業をしていたんでしょう、みんな聞き取りの力がかなり劣っています。話すほうも、自己紹介だけはすらすらできるんですが、他のことはからっきし。

　その自己紹介にしたって、みんな版で押したように同じことの繰り返し。ほぼ全員が「趣味はスポーツと音楽」で、「性格は外向」で、「はい、以上です。ありがとうございました」で終わるのです。趣味がみんな同じなのは本当にそうなんだとしても、「私の性格は外向です」じゃ日本語になってないし、真っ赤になってもじもじしながら言ってるんじゃ「うそぉ～ん」とツッコミ入れざるを得ません。でもって最後に「はい、以上です」をやられた日にゃ何かのギャグだとしか思えません。

　中でもずば抜けていたのが郭さん（仮名・２５歳）。サ行音が全部英語のｔｈの発音になってるのはともかく（とんでもない話ですが他にもけっこういるのです）、自己紹介の聞き取れなかった部分を私が例えば「お名前は？」と聞き返しても返事をしてくれないのです。一つには私の言うことがまるで聞き取れないということがあるのですが（「名前」ぐらいわかるだろうがよ、とキレそうになる私）、もう一つの理由は一目瞭然、郭さんは熊のような体格と口髭に似合わず恥ずかしがり屋さんだったのです。それでも「私の性格は外向です」って言いますからね。

　それを言うなら「明るい性格」とか何とか言いなさいよ、それに、それらしく言わないとダメ、ほら「私は明るい性格でーす」ってこういうふうに（B&B洋七の「めちゃめちゃ陰気やで～」を覚えている人は思い浮かべてください）。ね？どう？なんて顔を覗き込むと、郭さんは笑顔を浮かべたまま、オジギソウのようにうつむくばかりなのでした。

　日本語が聞き取れないんだからしょうがないでしょう、と思う方も多いでしょうが、もうこのへんになったら私、中国語で話しちゃってます。聞き取れないの？どういったらいいか考えてるの？とにかく反応してくださいな、ん？とか言っても郭さんはにこにこオジギソウ。河北の研修生が一生懸命励ましたり教えたりしても口を開いてくれないのです。私の代わりにブ～さんが授業をしたこともあったんですが、やはりダメ。職員室では、もしかしたら知能に問題があるのかも、まで言っていました。

　ある日、日本事情紹介みたいな授業をしていて、中国の一般的なタバコはいくら？なんて研修生たちに聞いたら、みんな口々に「５元」とか「いろいろです」とか答えました。うーん、この素直さが好きさ、なんて思っていたら、私の視界に思いがけないものが飛び込んできました。郭さんが右手を開いて５元だとアピールしていたのです。例によって顔を赤くしてうつむき加減でしたけど。うれしかったですねえ。ヘレン・ケラーがwaterって書いたときのサリバン先生のような気持ちでしたよ。

　その日を境に郭さんは見違えるようにぺらぺらしゃべるようになりました。と言うのはもちろん嘘で、でも、それから２日後の卒業の日には、名前・年齢・会社名を聞かれて答えられるようになっていました。記念撮影をすることになって、誰がどこに立つとか何とかみんながめいめい勝手に仕切ろうとしてかえって混乱する中、私と郭さんの目が合いました。すると郭さんは自分がしゃがもうか、というジェスチャーをしたのでした。うんうん、しゃべるのが下手でもいい、そうやって自分から積極的にコミュニケーションをとろうという気持ちさえ持っていてくれれば…。しばし胸を熱くする私でした。企業に着いてから「何やこいつ、アホちゃうか、何もしゃべれへんやないか」などと罵られなければいいんですけどね。

　その日の夜はやはりその日卒業した河北の研修生と飲みました。実際彼らに対して授業をしたのは５０時間ぐらいだったのですが、それでも私にとっては一番親しい人たちで、彼らもよく慕ってくれていました。先生はいつ日本へ帰りますかなんて聞かれて「さあ…」とか言いながら実家の電話番号を教えたり、ぬるいビールで乾杯したりして、それから駅まで送りました。私はこう見えて涙もろいので、駅では涙、涙の別れでした。それで興奮しすぎたのか駅から帰る車で私は思いっきりゲロ吐いたのでした。おいおい、これから毎度こんなふうに泣いちゃゲロか？身が持たないよ。

　翌日、二日酔いと悪化した風邪で気分は最悪。でも、この日は大事な予定がありました。中国人先生の採用のための面接です。

　現在いる中国人先生の中に孫さん（仮名・２１歳）という人がいるのですが、これが、うちの学校の先生のやりくりが一番大変な時期に、もう何でもいいからとりあえず日本語ができればいいやって感じで採用された人なんです。教務責任者である私の面接を経ずにスピード採用され、通常３か月の試用期間も１か月に縮められ、その期間の給料も通常より１００元少ない、というややかわいそうな条件です。

　でもって案の定ダメなんですね。かなり手加減しないと日本語で意思疎通ができないし、字が汚いし、発音にも強い癖があるし、「あ」はこう書きますとか言いながら体で手元を隠しちゃってるし、「北京は中国の政治セーターです」とか嘘教えるし（政治センター、つまり政治の中心と言いたいらしい）、自分の不注意で教科書と違うことをしゃべって学生につっこまれたら逆ギレ気味に開き直るし、おとなしそうな外見に似合わず学生には高圧的に接するし。しかも、注意したのに直らない。

　決してふてぶてしい嫌な奴、ではありません。むしろ頼りなげなおとなしい人です。私の注意も素直に聞いてくれます。でも、できない。これはもう努力云々の問題ではなくてセンスの問題です。いつかは成長してくれるだろうけど、そんなにじっくりと手をかけてのんびり育つのを待ってる余裕はないのです。ブ～さん他にも孫さんの授業ぶりを見てもらって、やっぱり試用期間が終わったらやめてもらおう、そのためにも新しい先生がすぐ必要だということに決まりました。

　新聞に広告を出す他に、先生たちも知り合いでいい人がいたら紹介して、なんてブ～さんは言ったらしいです。今３クラスあって、常勤が私を含めて４人、非常勤が１人います。うちの学校の１人１クラス制と、自分の安い給料を考えれば、なぜ学校はここでさらに求人するんだろうと疑問を抱くのが当然です。なのに孫さんは紹介してくれました。しかも自分より能力の高い人を。全然空気が読めてない。バカ正直のクソまじめです。そういう「気の利かなさ」が君の一番のマイナスポイントなのよ。何だかこっちが泣けてくるよ。

　孫さんを呼び出して契約更新はないだろうと伝えました。もう一度チャンスをくださいとか、私はいろいろ努力しましたとか、先生は私のことを知らないとかいろいろ言われました。胸が痛みました。でも私は研修生の教育に責任があります。そして、孫さんにはやはりどうしても任せられないのです。

　孫さんはべそをかきそうになりながら職員室を出て行きました。彼の試用期間はまだ１週間残っています。新しい先生が来るまでは授業もあります。ふてくされたりせずに社会人としてきちんと最後まで自分の仕事をしてもらいたいと思うのですが、さてどうなりますでしょうか。