おそらく２年前から考えていたことである。「日本へ帰ったら…」あれもしたいこれもしたい、と誰もが考えている。ほとんどそれだけを支えにしていると言ってもいい。熱海の温泉に行きたいとか明太子スパゲティを食べたいとか、とにかく中国ではできないことをやるんだあという決意でもって協力隊の２年間を耐えるわけである。私の場合、一つは「日本らしいところを旅行するんだあ」であり、それを先月実現した模様については別のページにごちゃらごちゃら書いたとおりである。

　そしてもう一つが「湖南料理を食べるんだあ」であった。毎日湖南料理を食っていてなぜ日本に帰ってまた湖南料理なのだ、と不審に思われるだろう。秋山はアホなのか、と。それもある。何だかんだ言って日本より湖南の方が好きになったのではないか、と勘繰る向きもあるだろう。秋山は日系湖南人になったのか、と。それはない。まあ簡単に理由を言ってしまえば、湖南料理通を気取りたいだけなのである。もちろん、うまい湖南料理に巡り会えればそれに越したことはないのだが、本心は「ちっちっ、こんなんじゃ湖南料理とは呼べないな」と言ってみたいわけである。前もって来るのがわかってたらそんな奴ぁ絶対に店の敷居はまたがせねえぞ、みたいないやーな客になりたいのである。

　なかなか行く機会が掴めずにいたが、この体育の日（中国隊のみなさん、成人の日と体育の日は今度からそれぞれ１月、10月の第２月曜日になるそうですよ）にやっと行くことができた。地元横浜のプロ野球チームが38年ぶりに優勝して感謝セールをやっているらしいので、そのにぎやかな雰囲気にふれてみたかったのと、これは個人的なことだが、私の就職祝いとをかねて、母と妹におごろうというわけである。お茶漬けにもラー油をかけるというアホな味覚をもつ妹は、辛さで鳴る湖南料理を楽しみにしてくれているようであった。

　JR石川町駅から歩いていく。善隣門をくぐり、人・人・人の中華街大通りを泳ぐように進む。そしてたどり着いた。一応店の名前はふせておく。特に行列もできていなかったのでやれやれといった感じで入店すると、店内の階段に並ばされた。７，８番目といったところか。そのへんの壁など見る。平日の日中は1500円で食べ放題のバイキングをやっているらしい。そのメニューも掲示されている。麻婆豆腐、青椒肉絲、エビチリ、カニ玉、杏仁豆腐…。

　どれもこれも湖南料理ちゃうやんけ！とついついテレビで覚えただけの関西弁になる私であったが、まあこれはしかたない。やはり日本人好みの、名の知られたメニューを中心に据えないと他店との競争に勝ち残れないのであろう。それにこういうのは、本当は居酒屋だけど昼にはランチもやってる、みたいなもので、店の本当のおすすめ料理であるわけではなかろう。うまい湖南料理はメニューの前の方のページにでーんと誇らしく載っているはずなのだ。お一人様3000円のコースだとベイスターズ優勝記念で紹興酒をくれるらしいが、そんなものより何より湖南料理だ。紅焼肉（ホンシャオロウ）があれば言うことない。腰果鶏丁（ヤオグオジーティン）もいいな。家常豆腐（ジアチャンドウフ）はないかもしれないが、蘿蔔干炒蝋肉（ローボカンチャオラーロウ）はあるだろうな。

　30分ぐらいで席に着くことができた。服務員のおばちゃんがメニューを置いていく。「ご注文お決まりになりましたら声かけてください」。どーれ、見せてごらんという感じでメニューを開く。家族の前で湖南料理通としての威厳を示すことのできる楽しいひとときである。そして、その楽しさは本当にひとときで終わってしまった。

　10ページほどのそのメニューのうち、湖南料理のページはたった１ページだったのである。しかも、そこにある料理も、そんなもん食ったことねえぞみたいなものばかり。ひゅーっ、かさかさ。季節はずれの木枯らしがテーブルの上を吹き抜けていった。ような気がした。しかし、たった一つ、ニンニクの芽と肉の炒め物はそれっぽかった。よっしゃああああ、これだ！と思ったが、よく見ると12月から２月までの期間限定メニューであった。おいおい、どーなってんだよー、という気分のところへ服務員のおばちゃんが「お決まりになりましたでしょうか」。いろいろメニューをひっくり返しているのはただのポーズで、どうせコースを注文すると思われているわけだ。湖南料理通の面目丸つぶれのひとときである。残念である。非常に悔しい。歯を食いしばり、拳をきつく握りしめつつオーダーを伝える。「3000円のコースを３人前」。ちくしょう、俺は湖南で２年暮らした男だぞ、湖南料理通なんだぞ、こんな、紅焼肉もないような店が湖南料理店だなんて俺が許しても毛主席が許さないんだぞ、俺様がオーダーするに値する料理をメニューに載せてないおまえらが悪いんだぞ。それでも悔しさが晴れないので麻辣田鶏（マーラーティエンジー）を追加した。せめてカエルでも食えるんだというところを見せなければ気が済まないではないか。妹は湖南辣湯麺（湖南ソバ）というのを追加した。コースには米飯、スープはもちろん、焼きそばまであるというのに。

　そして料理が運ばれてくる。やっぱりだ。みーんなちっとも辛くない。麻辣田鶏に入っていたのは辣椒じゃなくてピーマンだった。申し訳程度に山椒と鷹の爪。違う。全然違う。湖南辣湯麺もラーメン屋のタンタンメンより辛くなくて、妹はほんの一口食べただけで「なぁんだ、もっとすっごく辛いのかと思った」と言って得意のラー油調味を行った。違うのだ、妹よ。おまえが湖南に来てくれればわかってもらえるはずなのだ。こんなはずではなかった、これは違うのだよ。私はあふれる涙を抑えることができなかった。そのわりにはビールはおかわりしたりして、料理の方もちゃんと残さずに食べて店を出たのだが、私は「またこの店に来る可能性よりも、また湖南に行くって方がありそうだな」と思ったのであった。

【感想】
湖南料理だと思わなければまあまあおいしかった。ただ、一品料理の値段はちょっと高いんじゃないかと思う。