中国にいた頃、と、こう書き始めると「ほおら、秋山は中国引きずってる」と言われそうだが、もう気にしないことにした。人は誰だって過去を引きずって生きているではないか。特に幸せだった過去は。なのに海外生活経験を引きずってるとどことなく見苦しいのはなぜなんだろう。まあいっか。本題に入る。

　中国でとことこ歩いていると、たとえばこういう看板を見かけるのである。

「車内ではタバコを吸うべからず」
「ここで好き勝手に道を横断すべからず」
「このへんで心のままに痰を吐くべからず」

日本語訳がつたないのは勘弁してもらうこととして、まあだいたいそんなような内容である。とにかく喫煙・横断・痰吐きを禁止していることには間違いない。でもって、禁止しているということは、つまり、しちゃダメだということであって、そういうふうに禁止されている場所ではタバコを吸ったり道を渡ったり痰を吐いたりしている人間はいてはならないわけである。いるはずがないのである。

　しかし、私たちはそれら看板と同時に目撃してしまうのである。車内で喫煙する奴を。横断歩道のない場所で道を渡る奴を。痰を吐くなという看板に痰を吐きかける奴を。

　おかしいではないか。まっとうな論理的思考能力を持つ人なら誰でもそう思うであろう。なぜ禁止しているのにそれを破る人がいるのだろう。字が読めないのだろうか。読めるけど意味が分からないバカなのだろうか。意味はわかるけどわざと反抗してみたいお年頃なのだろうか。まさか。しかし、そう思ってみると、ダメだよって看板があるところに限って違反行為をしている人間が多いような気がしてくる。いったいなぜなんだろう。なぜ、禁止されているのに、そういうところでは違反行為が多いんだろう。

　賢明な読者ならもうおわかりであろう。これは私がバカなのである。疑問の持ち方が間違っている。そもそも問題の立て方がおかしいのである。なぜ禁止されているのに違反者が多いんだろう、じゃないよね。そういう悪い奴が多いから禁止しているわけである。普通に考えれば当たり前すぎてきょとんとしてしまうぐらいのものである。でも当時の私にとってはこれがコペルニクス的転換に思えたのだから今から思えば恐ろしい。

　そうか、なぜ○○なのに××なのだろう、じゃなくて、××だから○○である、なのだ。疑問は初めから存在していなかったのだ。前と後ろを入れ替えるだけで解答が導き出せるじゃないか。もしかしたらこの世の中に存在するありとあらゆる疑問は、この方法で解決できるのかもしれない。私は何か天啓を受けたような偉大な発見をしたような興奮に包まれた。そしてその発見の偉大さを検証するために追試を行ってみた。

　　なぜあの女の子は太ってるのに甘い物をばくばく食うんだろう。
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　　甘い物をばくばく食うから太ってるんだ。

すばらしい。見事なまでに疑問が晴れてしまった。興奮に小さく膝がふるえたりする。

　　なぜあのガキは毎日学校に通ってるのにバカなんだろう。
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　　バカだから毎日学校に通うんだ。

永遠に解けないかと思われた謎が、前と後ろを入れ替えるだけでいとも簡単に、しかも完璧に解けてしまう。私はいったい何ということを発見してしまったのだろうか。もしかしてこれは神の業だったのか。ならば私は神に尋ねたいことがある。

　　なぜこんなにがんばってるのに報われないんだろう。
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　　報われないからがんばるんだ。

ああ、なんとありがたい言葉であることか。これはまさしく神の声に違いない。涙が私の頬を伝う。おお神よ、我を導きたまえ。

　　なぜ愛しているのに愛されないんだろう。
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　　愛されないから愛するんだ。

汚れていた私の心が洗われていくようだ。神よ、ありがとう。じゃあ最後に一つだけ。

　　なぜ31歳なのに彼女がいないんだろう。
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　　彼女がいないから31歳なのだ。

何だよ、それ。わけわかんねえじゃん。というわけで、私ごときが神の声など聞けるわけがなかったという当たり前のことがわかっただけでこの件は終わったのであった。

【おしまい】